facebook twitter instagram Line

イベント

レッツゴーでろり庵 Back to the TENSHO

レッツゴーでろり庵 Back to the TENSHO

でろり庵 Back to the TENSHO



キャスト

こちらは天正時代の南島原を体験できる特別なタイムマシン『でろり庵』です。どなたさまでも、アプリから気軽にご乗車いただけます。怖がることはありません。遠慮なさらずに。
さあ行ってらっしゃいませ、BACK TO THE TENSHO→→


1. きらびやかな国際都市・有馬

1582年の有馬に到着。
ここが本当に有馬?思ってたよりずいぶん都会。人通りも多いし、外国人もいる。




お、ひときわ背の高い外国人が歩いてきた。町の人にちょっと聞いてみよう。



町人

あんた誰ね

えっと、旅の者です。
あの外国人は?

客

町人

おお、ベイガどの。
有馬はどがんね。

ベイガ

ベイガです、こんにちは。
食べ物も美味しいし気に入ってます。

町人

彼はポルトガル船の船長さん、子どもらの人気者ばい。有馬のお殿様はキリシタン、そのおかげで南蛮船が入って貿易も盛んやし、セミナリヨっちゅう学校もできた。殿様の日野江城もキラッキラぞ。
こがん華やかな町になったとは殿様のおかげよ。





当時のクリスマスを再現したイベント「フェスティビタス ナタリス」。約450年前、日本で初めて北有馬町に創立されたイエズス会の中等教育機関「有馬のセミナリヨ」により伝えられたキリシタン時代のヨーロッパ文化を再現しています。


このあたりは道の両脇にのぼりが立ってる。あれ、オルガンの音が聞こえてきた、賛美歌を歌っているのはアイドル…じゃないよね。



あの子たちは一体?

客

町人

ああ、あれがセミナリヨの学生たち。キリスト教の勉強をする学校よ。ちょっとのぞいて行ってみんね。



でろり庵メモ


南蛮貿易やイエズス会の援助により栄えた、キリシタン大名 有馬晴信の居城・日野江城の城下町。教会や修道院、日本初のセミナリヨ(イエズス会の初等教育機関)が建ち並び、多くの外国人宣教師や貿易商人が行き来する、華やかな国際都市でした。豪華絢爛だったと伝わる日野江城跡の発掘調査では、有力な大名しか使用できなかった金箔瓦が出土。当時の有馬氏の実力を物語っています。



日野江城跡から出土した金箔瓦

▼日野江城跡






2. ここはポルトガル?
エリート集うセミナリヨ




ここがセミナリヨか。お邪魔します。時間割を見ると…ふむふむ4:00起床でお祈り、日本語の習字に作文、聖歌に楽器、ラテン語での作文や討論まで。夜までみっちり勉強で20:00には就寝、と。すごいスケジュールだ。
先生は外国人。どうやら学生たちは、ラテン語での討論をやってるみたいだよ。



準管区長

はあ。なんということだ!

あなたは?

客

準管区長

わたしは視察にきたイエズス会の準管区長です。この子たちのレベルの高さには驚きました。まるでコインブラ(ポルトガル)に居るかのようです!

なかでもあの4人組、エリート中のエリートみたい。

客

ヴァリニャーノ

お目が高い。

あなたは?

客

ヴァリニャーノ

巡察使ヴァリニャーノと申します。有馬での教育と布教の成果として、まさにあの4人とともに欧州を回ろうと思っているんですよ。


それってまさか!天正遣欧少年使節!?



でろり庵メモ


天正8(1580)年、日本初のキリスト教初等教育機関・セミナリヨが有馬と安土に設置されました。イエズス会インド管区代表の巡察使ヴァリニャーノが発案。以降約30年間、有馬、八良尾、有家と移転しながらも断続的に教育機関が設置されました。地理学、天文学、語学(ラテン語)、宗教、美術、音楽など、ルネサンス期の西洋教育が行われたとされます。コレジヨは聖職者育成のための高等教育機関で、加津佐と有家に設置されました。

▼有馬セミナリヨ跡



3. センセーショナル!
天正遣欧少年使節




次は、1585年のローマに到着。
セミナリヨで会った4人の生徒たち、パレードで本当にアイドルみたいに拍手と歓声を浴びてる!沿道の観客に聞いてみよう。


客

すみません、なんの行列です?

新教皇の祝福パレードなんだけど、少年たちもなかなか目立ってますよ。先日はサン・ピエトロ大聖堂でローマ法王様にも謁見したそうです。

観客



『天正遣欧使節肖像画』
(京都大学附属図書館所蔵)


4人の名前は確か…伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン。その高い教養と礼節が、遠い極東アジアでの布教活動の成果として、世界に衝撃を与えたんだったよね。
とはいえ、13〜14歳の少年たち。ローマ法王謁見なんてあり得ないビッグプロジェクトだっただろうし、安全とは言えない長い航海だし。プレッシャーはすごかっただろうな。


でろり庵メモ


前述のヴァリニャーノが企画した、天正遣欧少年使節。その目的はローマ教皇、スペイン・ポルトガル両国王に布教の援助を申し出、また少年らに欧州のキリスト教世界を見せ日本での布教に役立てるためでした。1582年に長崎港を出発し、欧州各地で歓待を受け大成功をおさめて帰国。8年半の長旅から帰国しましたが、日本は悲運にも禁教の時代に入っていました。少年らが加津佐コレジヨに持ち帰った活版印刷機では、日本初の活版印刷が行われました。



南蛮屏風(九州国立博物館 所蔵)
出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)



4. ベイガ船長との再会

彼は…さっき会った船長。


また会いましたね、
ベイガ船長。

客




口之津港の巨大人形 南島原市PR大使 ベイガ

……

あれ、人形?

客

キャスト

お客さま、お帰りなさいませ。

あ、帰ってきたんですね。

客

キャスト

はい、お疲れさまでした。こちらは現代の口之津港です。ベイガ船長は今も愛されていますよ。口之津港の巨大人形、日本一背の高い歩行可能なゆるキャラ・南島原市PR大使としても活躍中です。



ベイガ船長(大)身長3m58cm。
身長を測るのも一苦労。



パペットベイガ

こんにちは、僕ベイガ船長です。

パペットベイガ


え、小さいじゃないですか。

客

パペットベイガ

わたくしパペットバージョンです。身長3.58mじゃ風圧に耐えられないし、手を引いてもらわないと動けないし。15分くらいしか活動できないし、登場場所が限られるしで、機動力を増すために一般的なサイズになったうえ、最終的にパペットになりました。


それは…お察しします。

客


でろり庵メモ


1567年、口之津港にトリスタン・バス・デ・ベイガ船長のポルトガル船3隻が入港。
1579年にはヴァリニャーノ巡察師が上陸します。南蛮船の入港は1567・76・79・80・82年の5回、合計7隻が入港しました。
当時の日本人が初めて見た西洋人。体格の良さにさぞ驚いたでしょう。そのことが伝わる巨大な人形が口之津港フェリーターミナル前にあります。

▼ベイガ船長像







ダウンロードはこちら





エピローグ

現在ここは、のどかな風景の広がる自然豊かな町ですが、16世紀には当時の最先端が集まる賑やかな国際都市でした。天正遣欧少年使節の少年たちが学び、世界と繋がっていた場所。そう思って歩くと、また一味違った南島原の景色が見えてきます。

もっと詳しく学びたい方は、ぜひ有馬キリシタン遺産記念館を訪れてくださいね。



▼有馬キリシタン遺産記念館


[ヴァリニャーノの絵画 出典]
Portrait of Alessandro Valignano – Photo courtesy of Stadt Museum Ingolstadt, Germany]

TOP