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海を味方に付けた城 図解・原城

海を味方に付けた城 図解・原城


TV番組でも「最強の城」として紹介されたことのある原城跡。
本丸からの美しい眺めに心奪われます。大きく広がる空。青い海の向こうには熊本県天草市が見えます。海と反対側に目を向ければ、平成新山がそびえ立つ絶景です。


原城跡の別の上空図を見てみましょう。



ここでひとつ疑問が生まれます。
内陸側には各地から集まった約12万人もの幕府軍が布陣。海に阻まれ逃げ場がないように見えます。
片方が海に囲まれた逃げ場のない立地なのに、なぜ「最強の城」であったのかということです。

一揆軍にとって「海」は道だった。



残された原城の絵図を調べると、大手門、田尻門、蓮池門、大江門など、原城はいくつもの門を海に向けて設けてあり、有明海に開いた「海の城」だったことがわかります。



原城の周辺海域は潮流が複雑で、幕府軍は船を留めることすらままならなかったといいます。それに対し有明海を熟知する一揆軍は、幕府軍の封鎖網を突破して船を出すことができました。
兵糧攻めにあいながらも、2万数千人(諸説あり)を越す大勢の人が約3ヶ月にわたり籠城できたのは、海のルートで食料などの物資を調達していたからと考えられます。原城は決して袋のネズミではなかったのです。

原城跡・日野江城跡専門委員会委員の服部英雄氏の研究によれば、天草四郎たちは全国のキリシタンたちに一斉蜂起を呼びかけつつ、マカオを拠点にしたポルトガルの援軍を得る作戦を立てていました。
有明海に面した原城は、まさにポルトガル艦隊を待つのに最適な立地。日本各地と結び、世界との連携を構想した一揆軍の壮大な作戦のもと、十分な勝算を持って、一揆軍は籠城したのです。

しかし、一揆軍が期待した各地のキリシタン蜂起は起きませんでした。また、オランダに東アジアの制海権を奪われつつあったポルトガルは援軍を送ることが叶いませんでした。
結果として籠城した一揆軍2万数千人(諸説あり)のほとんどが亡くなる壮絶な戦いの末に、原城は落城しました。

もし各地で一揆が起きていたら・・・
もしポルトガルが艦隊を派遣していたら・・・

その後の歴史はどうなっていたでしょうか。
島原・天草一揆は、たいへんな可能性を秘めた戦いだったのです。
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