facebook twitter instagram Line

スポット

天草四郎像

石碑・記念碑
1月下旬には築山や井楼が完成したことで、石火矢などによる攻撃が開始されました。また、要請していた兵も到着し、幕府軍はおよそ12万人となりました。このころには、一揆勢が城中から海岸に出て海藻をとる姿がたびたび見られるようになります。幕府軍は一揆勢との矢文でのやりとり、旧領主有馬家の家臣による一揆勢との会見、忍びによる城内の情報収集などにより、兵粮がつきかけていると判断。そして寛永15年2月24日(1638年4月11日)、軍議により原城総攻撃の日にちが決定します。当初は26日に行うとされましたが、雨が続いたことから28日となりました。前日の2月27日、長崎奉行榊原職直(さかきばらもとなお)父子が鍋嶋勝茂(なべしまかつしげ)の兵とともに、期日を待たず原城への攻撃を開始します。その状況を見た他の軍も競うように攻め込みましたが、原城は難攻不落として知られており、なおかつ、篭城した一揆勢の抵抗も激しかったため、制圧したのは翌28日でした。
住所
長崎県南島原市南有馬町乙
Url
URL
カテゴリ
石碑・記念碑
クッキーの同意がないため表示できません
クッキーの設定をリセット
TOP